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カテジナ日記

Vガンダムと富野由悠季作品

Vガンダム 47話 女たちの戦場

ギロチンを押し付けられたファラにしろ、ルペ・シノにしろ、彼女たちは愛した男を取り込んで、殺すことしか知らない。そして、そんな「女」たちを、ここで「母」になりつつあるマーベットが撃退する。この「女」と「母」の違いは、命を「奪う」か「生み出すか」の違いなのだが、実は根本的なところではあんまり変わっていない。要するに彼女たちにとって肝心なのは「自分の内側に男(子供)がいるかいないか」だ。

 

マーベットがファラを打ち破ったのは、子供を手に入れたマーベットの方が、男に飢え続けているファラよりもずっと精神的に安定してるからだろう。だがしかし、この「母」もまた子供に対する「執着心」と、その際限のない「甘さ」から、子供の成長を妨げてしまうことがある。その筆頭が女王マリア・ピア・アーモニアだ。彼女の底なしの「母性」は、この後、ザンスカールの男たちと、地球の生物を無限に幼児退行させていくことになる。

Vガンダム 46話 タシロ反乱

シャクティはタシロ向かって、物怖じすることなく反論し、またクロノクルの拳銃を奪って彼を撃つことまでするのだが、これと同じ光景をガンダムファンは数年後にも見ることになる。そう、∀ガンダムに登場するキエルもまた女王ディアナに代わってムーンレィスの男達を叱責し、ギンガナムの刀を奪って彼に切りかかろうとしていた。女王マリアに代わってシャクティキールームに入ることからも分かるように、この親子の関係は∀ガンダムにおけるディアナとキエルの関係と全く同じであり、Vガン世界におけるグレートマザーの交代劇なのだ。勿論、ディアナ=甘やかしすぎる母親=マリアであり、キエル=厳しさを持つ母親=シャクティである。

 

「とうの昔に狂っている!」タシロやファラに比べて、カテジナは自らの狂気を自覚している。彼女に言わせれば、それはウッソとシャクティのせいなのだが、個人的には社会に対する彼女のスタンスのせいだと思う。戦場(ガンダムにおける社会のメタファー)の狂気に染まってでも、社会変革を志すカテジナと、エゴイストと呼ばれよる可能性を引き受けつつも、そんな戦場からは距離を置き続けるウッソ。この宇宙世紀0153年において、どちらが正しかったかは言うまでもない。「生きのびる」ために自ら戦場に飛び込んだアムロ的な生き方は、Vガン世界では通用しないのだ。

Vガンダム 45話 幻覚に踊るウッソ

ジャミトフ・ハイマンは連邦制度の引き締めと、ジオンの残党狩りを目的にティターンズを設立。右傾化する社会を憂いたブレックスは、ティターンズに対抗するために、左翼過激派組織エゥーゴを結成。そのエゥーゴの台頭を恐れたバスクティターンズを極右武闘派組織へと作り変えていった。そして彼らは互いに暴走、グリプス戦役へと突入してゆく…。彼らが根っからの悪党だった、という訳ではないだろう。むしろその逆だ。悪人だから右になる訳じゃないし、左になる訳でもない。彼らは、ただ、「よりよい社会を創り上げなくては」と、焦って行動しただけなのだ。


「…何かしよう、何かしなきゃ。その焦りが事態をここまで悪化させたとは思わないか…?」。これは「機動警察パトレイバー2 the Movie押井守)」における後藤隊長の弁だ。また、このP2に強く影響を与えた「逆襲のシャア」のエンディングテーマ Beyond The Time(TM NETWORK)の歌詞は富野監督本人が手を入れたと言われているが、そこにはこうある。「…夢という風に導かれて、過ちの船に揺られてゆく…」。この夢とはもちろん社会変革(ニュータイプ)のことだ。ちなみに、あの悪名高いナチスも、その支持母体は「青年たちに職を与え、ちゃんと社会参加させよう」と主張していた左翼政治団体だった。


このVガンダムでは、変革への意欲あふれるカテジナ&クロノクルのコンビより、全体的に消極的で、いまいちヤル気のないウッソの方が肯定的に描かれている。この45話における女王マリアの祈りも「変革など夢見るから、その業がますます深くなる」「人々は穏やかな日常へ帰ってそこで成長しろ」というメッセージに他ならない。だが、これは一歩間違えば単なる現状肯定にしかならない。しかもマリアの祈りに闘争本能を封じられたウッソは、現実を生きるどころか、幻覚の中で危うく死にかけてしまう。その時ウッソを救ったのは、(闘争本能溢れる)オデロが広げた光の翼と、シャクティが歌う「ひなげしの歌」だ。「…若者たちは 夢の翼を広げて ひなげしの花を 散らしながら 旅立っていく…」。逆シャアからVガン時代の富野は現状肯定と社会変革願望の間で激しく揺れていたのだろう。この少年に、いや人類に「夢の翼」で旅立つことは必要なのか?と。