Vガンダム 50話「憎しみが呼ぶ対決」

「クロノクルは私に優しかったんだ!」

家庭、故郷、リガ・ミリティア。何処にも居場所のないカテジナにとって、ザンスカールとクロノクルだけが「巣」であり、それさえ手に入れられれば彼女は何処にいたってよかったのだ。しかし、その場所すらシャクティという「お姫様」に蹂躙されしまった。そう、いつも大切にされるのはシャクティ(とウッソ)なのだ。

カテジナには「人生に意味や目的が欲しい。価値あることがしたい」という想いがあった。だから、彼女は「革命」や「(王子様との)恋愛」に走ったのだ。それは同時に「特別でありたい、人とは違った存在でありたい」という欲求に簡単に結びつく。「その他大勢」としての人生には意味がないからだ。

彼女がウッソやシャクティを嫌っていたのも納得だろう。何故なら、ウッソたちこそ、才能がありながらも「その他大勢の人生」を生きて行ける「スペシャル」な存在だからだ。歴史の中に埋もれてゆくことを平然と受け入れられるウッソやシャクティが、彼女は憎かったのだ。しかも皮肉なことに、そんなウッソやシャクティこそが「ヒーロー」と「お姫様」で、いっぽうの彼女は、何処まで行っても、ただの「お嬢さん」止まりなのだ。

Vガンダム 49話「天使の輪の上で」

タシロはカガチに反旗を翻すという、野心家らしい行動には出るものの、軍事力はファラに頼っているし、戦後の統治は女王マリアに任せるという。視聴者は「じゃあ、お前自身は一体何をやるんだ」と突っ込みたくなる。そのくせ彼は女達に対して支配的に振舞っているのだから性質が悪い。しかしVガン世界の女達は、こういった女性に対する支配と依存を繰り返す男達の存在をなんとなく許しており、そんな彼らの尻拭いのために死んでゆく。

そんな中、たった一人、弱い男達の姿に苛立っているのがカテジナだ。露骨にクロノクルの尻を引っぱたき始めたことから分かるように、彼女は男の子が女性に対して抱く「幻想」に対して徹底的に冷淡で、絶対に男を甘やかさない。

そして、この49話でとうとう彼女は、ウッソが自分に押し付けてきた甘ったるい「少女幻想」を完全破壊するための暴挙に出る。ネネカ隊特攻。それは「生身の、少年を傷つける女たち」を特攻させ、ウッソに彼女達を殺害するように無理矢理仕向ける作戦である。ネネカ隊を全滅させたウッソは、カテジナへの憎しみから、初めて彼女を殺そうとする。カテジナにとっては、これがショックだったらしい。「幻を振り切り、私のことまで振り切ったか…」。カテジナは寂しく、自嘲気味に笑う。本当の私の姿なんて、誰も愛さない、と。

ちなみに、このエピソードにショックを受けたと言われているのが、「エヴァンゲリオン」の監督、庵野秀明だ。「強くて優しい美少女に甘えるな」とウッソを罵倒するカテジナの姿は、その2年後に「惣流・アスカ・ラングレー」として復活することになる。

Vガンダム 48話「消える命 咲く命」

「いつの間にか戦争に染まりきっているよな」「僕は嫌なんです。人殺しをしているところで大人になるなんて」

劇中のこうした台詞は、過去のガンダム・シリーズ、特にファーストガンダムの否定に近い。戦場という「非日常」で大人になってしまったアムロが、Zガンダムにおいては、豊かで平和な「日常」に適応できないダメ人間になっていたのを思い出して欲しい。ウォン・リーの娘、ステファニーにも突っ込まれていたが、アムロが元気になるのは戦場だけなのだ。クワトロ(シャア)の「これ(戦争)以外に食う方法を知らないからさ」も、茶化してはいるが半分は本音だろう。

Vガンダムと続く∀ガンダムにおいて、富野は戦争という「非日常」よりは、むしろ「日常」における成長物語を描くことに腐心している。このエピソードにおいても、ウッソをはじめとするホワイトアークの面々は、「日常」を取り戻すために、戦場の真っ只中で遊んでいる。そう、当たり前かもしれないが、この「日常」こそ、必死になって創り上げるものなのだ。

しかし、ウッソの父ハンゲルグは、息子の運んでくる、この「日常」の匂いが鬱陶しいらしい。息子に対してそっけない態度をとり続けている。彼が戦争を始めた理由は、そもそも「日常」を取り戻すため、だったはずなのだが、いつのまにか「日常」に帰ってこれない本物の「戦争マニア」になってしまったようだ。

カテジナもまた、このハンゲルグと同じように「日常」に対する不全感と苛立ちを、戦争という「非日常」にぶつけているのだろう。