カテジナ日記

Vガンダムと富野由悠季作品

父の死、そして復活

1988年に公開された、機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

 

この作品全体から受ける印象はなんというか、実のところあまり政治の話をしていないな、ということだ。
むしろこれは父ジオン・ダイクンの遺志(ニュータイプ論)に振り回されて死んでゆく哀れな子供たちの物語…と表現したほうが適切じゃないだろうか。

 

そして逆襲のシャア公開後、1990年にベルリンの壁が崩壊し、つづく1991年にソ連が解体する。
人類が100年にわたって見つづけてきた一つの夢…共産主義、というよりは、それを支えた進歩史観とその母体となった近代的な人間観はその有効性を失った。

 

ここでガンダムにおける架空の宇宙世紀と、我々が生きる現実世界の間に、ちょっとしたシンクロニシティを感じるのはそれほど無理な話でもないと思う。
たとえばジオン・ダイクンをマルクスニュータイプ論を共産主義に置き換えれば、大雑把にみて、この2つの世界の状況は似たり寄ったりじゃないだろか。
厳格な父、その父が息子に語って聞かせる理想、その父の理想を実現するために苦悩し、時に殺しあう子供たち…。

 

しかし現実世界におけるソ連の解体と、宇宙世紀におけるシャアとアムロの死を最後に、こうした時代は終わりを告げる。
前回「父が死んだ時代」と書いたのは、こういったイメージからの連想だ。

 

そして、これは私の勝手な想像だが、富野由悠季もまた、1980年代末から1990年代初頭にかけてを「父が死んだ時代」だとイメージしたのではないだろうか。
実際、富野が作った逆襲のシャア自体がそうした内容を含んだ作品に見えてしまう。

 

だが、ここで富野は一つの光景を目撃した。
1989年。
昭和から平成への移行だ。
史上まれにみる経済的発展をとげ、太平洋戦争など完全に記憶の片隅に追いやっていていた世紀末ニッポン。
日本人は歴史、国家、戦争、天皇、etc.といったような古臭くてホコリをかぶった言葉に興味をもはやもっていない。
当時の人々の多くはそう考えていた。

 

だが、実際は違ったのだった。
昭和から平成への移行は、当時の日本人に予想外の衝撃と熱狂?をもたらした。
当時のテレビメディアは時代が巻き戻ったのかと思われるほどに、昭和という時代を振り返るモノクロフィルムであふれかえっていた。
 

これは推測だが、昭和天皇崩御は日本人にとって、やはり、父の死であり、そして、平成天皇の即位は父の復活だったのだと思う。
それも、平成というどこか古めかしい響きの年号を伴っての。
 

そしてこれもまた推測にすぎないが、これ=父の復活こそが富野由悠季ガンダムF91を制作したきっかけだったんじゃないだろうか。