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カテジナ日記

Vガンダムと富野由悠季作品

serial experiments lainを振り返る

正直、今観ると、そこまで完成度が高い作品ではないし、また、賞味期限切れの描写が目立つ作品でもある。しかし、それゆえに、例えばエヴァンゲリオンよりも、あの90年台後半という時代の空気をより強く反映しているようにも思える。

 

この作品を一言で説明してしまうと、押井守攻殻機動隊 Ghost In The Shellを逆さまにした作品、つまり人形遣いの立場から描いたものだ。Ghost In The Shellでは、高度に擬体化された身体を獲得した草薙素子が、果たして私は人間なのか、すでに、私という意識はある種のプログラムに置き換えられているのではないか、と苦悩する。人形遣いと呼ばれるプログラムは、身体と、私という自意識へのこだわりを捨てれば、ネスクトステージに行けるのだ、と草薙素子を説得し、彼女をマトリックスの裂け目の向こう側へ誘う。

 

一方、このserial experiments lainにおいて、事態は逆である。ヒロインである玲音は、草薙素子同様の不安を抱えているのだが、その正体は、むしろ人形遣い同様の、ネットワーク上のプログラムである。彼女はあるプロジェクトによって、かりそめの身体を与えられ、一時的にこの地上に存在していたのだ。

 

結局のところ、この二つの作品は、同じ不安を描いている。それはネットワークに接続された=拡張された身体を獲得した人間の、自意識と、アイデンティティ不安だ。玲音、レイン、lain、そして、れいん。多重人格というモチーフはその表現の一つに過ぎない。玲音はネットワークを通じて、この世界に偏在している。しかし、ゆえに彼女は世界のどこにも存在していない。学校の友人とは、表面的な付き合いしかしておらず、家族とも、薄皮一枚挟んだようなコミュニケーションしかとっていない。

  

しかし、それは玲音に限らない。劇中の、ほとんどの登場人物が、彼女と同じように、どこにも帰属意識を持たず、また、本質的なコミュニケーションを避け続けているように見える。 だが、その一方で、彼・彼女等は、学校が嫌いなわけでも、家族が憎いわけでもない。従って、ヤンキー的な共同体に、深くコミットすることも、また無い。その代わりに、若者たちは、ネットワーク、ストリート、そしてクラブにたむろし、そこで不安を解消するための、刹那的な快楽に身を任せている。

 

90年代後半。それは、漂白する個の時代、だったのではないだろうか。