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カテジナ日記

Vガンダムと富野由悠季作品

Vガンダム 30話 母のガンダム

分かりやすい悪人ファッションのザンスカールの秘密警察や、あまりにもあっさり出会ってしまうウッソとミューラ・ミゲルなど、ギャグっぽい描写が多い。だが、そこで描かれるのはグロテスクな母のエゴだ。ミューラ・ミゲルは自分の見たオカルティックな夢まで根拠にして、息子に「ニュータイプ」や「希望」といった、自分自身では手に入れられなかったものを押し付け、そしてウッソに英才教育という名の洗脳教育を施した挙句、彼を手放そうともしない。ウッソは彼女の人生の補償なのだろうか。

 

これは私の想像だが、ミューラは夫であるハンゲルグのことをあまり愛していなかったのではないだろうか。実際、劇中でもハンゲルグとミューラが出会うシーンは無いし、後にウッソが父に自分の教育方針について尋ねたとき、彼の答えはミューラのそれとは異なっていた。ハンゲルグはウッソがニュータイプだとは信じていなかったし、逆に彼は強すぎる息子に対して戸惑いすら抱いている。息子に対する認識がここまで異なる二人が、足並みをそろえて親をやっていたとはあまり思えない。おそらくミューラは夫に対する失望をも息子に対する希望に転化させたのだろう。また、ウッソもウッソで母親に違和感を感じながらも、彼女から離れようとはしない。

 

過去のガンダムシリーズにおける男の子の成長とは「母親」あるいは「(母親代わりの)幼馴染」を捨てて「他の女」のところへ走ることだった。初代ガンダムであれば、アムロはカマリアやフラウ・ボウを捨てて、マチルダやララァのもとへ走ったし、Zガンダムにおけるカミーユはヒルダ・ビダンファ・ユイリィを捨てて、フォウを選んだ(そして帰ってこれなくなった)。


しかし、ここで注意して欲しいのは、アムロはともかく、カミーユはヒルダやファをかなり鬱陶しがっていたにも関わらず、最終的には彼女たちから逃げ切れなかったということだ。TV版 Zガンダムのラストで精神崩壊し、大人の男どころか「赤ん坊」同然になったカミーユアーガマへ連れ帰るのはファなのだ。(しかも劇場版新訳Zでは、カミーユはファの胸に屈託無く飛び込んでしまう。このシーンの意味は結構大きいと思う)そして、Vガンダムにおけるウッソは母親を鬱陶しがるどころか、むしろ(違和感を感じながらも)積極的に母の胸に飛び込んでしまう。おそらくこれは富野の「成長物語」に対するスタンスが変化した、ということだろう。


ところで、陳腐な例えだがガンダムシリーズにおける、「母親」の「愛情」を葛藤の末に捨てて「大人の男」へと成長していく主人公、というのは、「母なる地球」の「引力」から脱出してニューイプへと進化していく人類の進化の過程そのものだ。だから、何故、シロッコがあれほどに地球の「重力の井戸」を恐れ、また女たちを「調教」しようとしたのか、なぜシャアは地球を愛しながらも、そこに隕石を落とそうとしたのか、考えてみると結構面白い。