Vガンダム 31話「モトラッド発進」

戦争に興じる大人たちを片目に、掃除や炊事について語り合うシャクティとスージーが印象的だ。他の戦争(ロボット)アニメを観ていると、人の生が戦場や革命という「非日常」に全て集約されるように錯覚するが、実際は彼女たちが言うように「人が生きていくために大事なこと」は「非日常」の中ではなく、むしろ「日常」の中にこそあるのだろう。

だが、そんな「日常」に人生の意味を見い出せなかった人物が、このVガンダムには登場する。カテジナ・ルースだ。彼女はより苛烈な「生」を求めて戦場という「非日常」に飛び込んでゆく。多くの人はこんな彼女を笑うかもしれない。この彼女の姿は、ガンダムという戦争ロボットアニメにとり付かれた、私たちアニメファンの姿にもダブって見えないだろうか。

さて一方、オリファー・イノエが急に張り切って子供たちの面倒を見始める。残り少ない人生を予感して、今のうちに父親として振舞っておこうとでもいうのだろう。もっとも、オデロのこの先の運命について考えると、彼のこの判断が正しかったどうかには少々疑問が残るが。そしてそのすぐあと、オリファーは戦死するのだが、この時の彼の「特攻」はハッキリ言って「無駄死に」である。もちろん、富野は世代的に「特攻」についてかなりの思い入れがある。それは彼の初期作品を見ても分かると思う。ファースト・ガンダムでも多くの男たちが「カッコよく」死んでいった。だが、Zガンダム以後の富野作品では「カッコイイ特攻」というのが殆ど出てこない。大抵の場合失敗か、無駄死にかのどちらかだ。多分、富野は心情的に「特攻」のことを美しいとか、疎かに出来ない、と感じる一方で、倫理的には「アホらしい」とも思っているのだろう。それは男のマッチョイズムを満たすかもしれないが、それだけのことである。また、「死んだけれど、それには意味があった」と信じたい、残された者たちの心情が「意味があるから、死ね」にあっさりすり替わってしまうことの危険がアタマにあるのだろう。こうしてオリファーは父親としても、戦士としても中途半端な存在のまま、この物語から退場する。