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カテジナ日記

Vガンダムと富野由悠季作品

Vガンダム 37話 逆襲ツインラッド

Vガンダム

鯨の屍骸に怯えるマルチナとエリシャに対してシャクティが電波な身体論を炸裂させる。ドゥカー・イクの唐突でエキセントリックな言動も含め、Vガンダム全話中で最もクオリティが(ある意味では)低いエピソードといえる。もし、普通の人がこのエピソード話を最初に観たら、二度とVガンダムを観ないかもしれない。


だが、ここでシャクティが語る電波な身体論は、Vガンダムのメッセージの一つを簡潔に説明するものだと思う。要するに、彼女は「人間というのは、醜く汚れ、時に腐臭を発するような存在であって、決して美しくは生きることが出来ない」と語っているのだ。これはマルチナやエリシャに向けて、と言うよりも、カテジナをはじめとする「ピュア」に生きたくて仕方のないマリア主義者たちに対して投げかけられた台詞だろう。


一方、ドゥカー・イクは相変わらず「地上をバイク乗りの楽園にしたい」という「訳の分からない」理由で、リガ・ミリティアに戦いを挑んでくるのだが、この「噛み合わなさ」はVガンのドラマ性を下げていると思う。通常、戦記物におけるドラマというのは次のような3ステップを踏んむことが多い。

1)当初、主人公は敵に人間性を感じていない

2)敵の人間らしさに触れ、共感する

3)そえれでも逃れられない戦場の現実

例えば、ファーストガンダムにおけるランバ・ラルのエピソードはその代表的なものだ。だが、Vガンダムにおいてはこのステップがあまり踏まれていないように思われる。「あの叔父さんとは話しても無駄だよ!」というオデロの台詞に集約されるように、ドゥカー・イクにしろ、クロノクルにしろ誠実なのは分かるのだが、マリア主義者の多くは何かが根本的にズレていて、会話が成り立たないのだ。


だが、この「ドラマの無い戦争」は、今日においてはある意味でリアルではないだろうか。90年代半ばから某カルト教団のように、いわゆる「おかしな人たち」が様々な事件を引き起こしてきたが、大抵の場合、彼らの弁明は「意味不明」であり、人々を失笑させ、脱力させると同時に不気味がらせてきた。この「理解出来ない隣人」たちが日常に潜んでおり、彼らがいつ何の理由で暴発するか分からない、という状況(アンダーフックのエピソードを参照)と、Vガンダムにおける「理解できない人々」との「意味不明な戦争」はよく似ている。