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カテジナ日記

Vガンダムと富野由悠季作品

Vガンダム カテジナ・ルース

Vガンダム

これまでアップしてきたVガンダムに関するテキストは、基本的には昔(2000年代)に書いたものです。当時は、富野由悠季ファン、その中でもVガンダムのファンは多くありませんでした。それどころか、宇宙世紀黒歴史=トンデモ作品として扱われていたように思います。カテジナを「カテ公」と罵倒する、当時の風潮がそれをよく表しています。
私自身、大人になってからVガンダムを観て、その内容に衝撃を受けた人間です。この衝撃を、他の人にも伝えたい。Vガンダムは、ただのトンデモ作品ではない。ましてや、カテジナが「カテ公」などと呼ばれる筋合いはない。それが、このテキストを書いた動機です。

 

基本的に、Vガンダムというのは、主人公たちが(ある種の)現状肯定と、引きこもりを選択する物語です。これは、当時(90年代)の富野由悠季の気分(モード)だと理解していい。富野作品においては、少年を成長させるのが父性であり、退行させるのが母性です。この両者のせめぎ合いこそが、ガンダムシリーズの中心的モチーフだといってもいいと思います。しかし、このVガンダムという作品では、母性が父性を圧倒しており、最終的に、ウッソも、大人たちも、この母性の中に取り込まれてゆきます。だから、ウッソとシャクティを放っておくと、実は物語が進行していかないのです。



このように登場人物のほぼ全員が、この富野の気分(母性)に流されていく中、カテジナだけがその流れに逆らいます。実父に失望したカテジナが、強い父=父権を求めて、ウーィッグの街から出ていく=富野の思想(母性のモード)に反旗を翻すからこそ、Vガンダムという物語は成立するのです。劇中では、ある種の狂人として描かれるカテジナですが、しかし(ある意味では)彼女だけが正気だったのかもしれません。



カテジナは、作家の創造した登場人物ですが、その一方で、作家の意図を超えて動き、この物語を生み出しています。その意味においても、カテジナは主人公と呼ぶに相応しいキャラクターであり、この彼女の存在こそが、Vガンダムを稀有な作品としているのではないでしょうか。