”失われた未来”を求めて ―シュタインズ・ゲート―

子供時代の夏休みに「なにか」を失ったにもかかわらず、それが何なのか、思い出せない。しかし、その喪失感だけは胸の奥に刻み込まれている……。アニメ「シュタインズ・ゲート」はそんな気分にさせてくれる作品です。
その理由を探ってみよう、自分自身に説明してみよう、というのがこのテキストの趣旨になります。ちなみに私が準拠するのはアニメ版です。原作であるゲームについては未プレイですので悪しからず。 

ゼロ年代秋葉原

厨二病が治癒しない主人公 岡部倫太郎は、幼馴染の椎名まゆり、友人 橋田至とともに「未来ガジェット研究所」なるサークルを設立、秋葉原の裏通り、中古家電ショップの2階で日夜、発明に勤しんでいた。
発明のほとんどは役に立たないガラクタだったが、しかしある日、意図せずしてメールを過去に送信する「Dメール」を発明してしまう。そして、そのDメール実験による「歴史改変」の結果、秋葉原は「萌えの街」から「電気街」へと変化する。
その後、ひょんなことからメンバーとして加わったアメリカ帰りの天才少女 牧瀬紅莉栖はDメールの原理を応用し、人の記憶だけを過去に送る「タイムリープ」マシンを完成させる。
だが、この彼らの活動はその当初より、世界征服を企む謎の組織「SERN」に監視されていた。岡部と栗栖の拉致を目論むSERNはラボを襲撃、その際に椎名まゆりは殺害されてしまう。
彼女の死を回避するため、岡部は栗栖の発明したタイムリープ装置によって自らの記憶を過去に転送、Dメールによる歴史改変それ自体をなかったことにしようとする。

舞台となる「未来ガジェット研究所」で開発された「ガジェット」とはどんなものでしょうか。

ビット粒子砲(おもちゃの光線銃にテレビのリモコンを合体させたもの)
タケコプカメラー(軸の部分に小型カメラを仕込んだ竹トンボ)
モアッド・スネーク(掃除機の排熱を利用して動くドライヤー)
サイリウム・セーバー(サイリウムに柄を付けた棒剣)

ドラえもん」の「ひみつ道具」的な、しかし他愛のないおもちゃです。ラボの内部も不思議な空間です。「未来〜」を名乗るわりに、そこで使われているモニタは「LCD」。テレビは「ブラウン管」。「Dメール」のモニタは、ブラウン管を通り越して「ニキシー管」です。そして「ゼロ年代の萌えブーム」まっさかりにも関わらず、室内に「萌えグッズ」的なものは、ほとんど見受けられません。ラボ自体は、秋葉原の表通りから引っ込んだ中古家電ショップの2階に位置しているのですが、そのショップのオーナーのあだ名は「ブラウン管」を愛するがゆえに「ミスターブラウン」。一言でいえば、どこか「懐かしく」「古めかしい」のが、この未来ガジェット研究所です。

 次に主人公である岡部倫太郎ですが、いわゆる当時の「萌ヲタ」ではないようです。この彼の過去改変への動機は(少なくともアニメ版では)あまり明瞭ではありません。Dメールよる過去改変の結果に慄きつつも、秋葉原を萌えの街から電気街に変えてしまうまで、彼の実験は続きます。

舞台となる「秋葉原」。歴史が改変され、そこは「萌えの街」から「電気街」へと変貌します。しかし、電気街に変貌したあとの秋葉原は、奇妙なまでに薄暗く、人通りの少ない、どこか現実感の失われた場所となってしまいます。

 

劇中におけるこうした事物や事象は、いったい何を示しているのでしょうか?

それは、未来ガジェット研究所が、その名前に反して「未来を研究していない」ということです。いや、それどころか、岡部倫太郎が本当に愛し、追求しているのは「過去」、もっと正確に言えば「過去における未来のイメージ」です。

彼の「未来ガジェット」ですが、すでに述べたとおり、それはドラえもん的な、過去における「未来のイメージの再現」にすぎません。彼が「LCDモニタ」や「ブラウン管」にこだわるのも同じ理由からでしょう。「未来ガジェット研究所」は、正しくは「”失われた未来”ガジェット研究所」だったのです。

このように理解すると、岡部が萌ヲタでない理由も推察できます。なぜなら彼は「過去の秋葉原」を懐かしんでいるからです。そこに萌えは不要だった。そしてだからこそ、彼の実験は、秋葉原を「電気街」に戻すまで止まらないのでしょう。彼のモチベーションは一貫して「失われた未来」を再発明することなのです。

 この作品に、ある種の喪失感や物悲しさが漂っている理由は、ここにあるのかもしれません。岡部は、常に「失われた未来」を追い求めており、「現在」に上手くコミットできていない。彼らが秋葉原の裏通りに「引きこもり」、世間から孤立しているように見えるのは、たまたまではないと思います。

このように世間から引きこもっている(ように見える)主人公ですが、物語のレベルにおいても、彼は社会と上手く接続できていません。たとえば劇中において、岡部が「歴史改変」を試みた結果、漆原るか は少年から少女へ、また、秋葉原は萌えの街から電気街へと変貌します。しかし、それは岡部の「アイデンティティ」になんの影響も与えません。たしかに 漆原るか は少年から少女になった。メイド喫茶のアイドル 秋葉留未穂 の父は死なず、その結果、秋葉原は電気街に戻った。しかし、「それだけ」なのです。岡部自身が不思議に思うように彼が「歴史改変」を繰り返しても、「今ここ」における彼らの「パーソナリティ」や「人間関係」には「なんの影響もない」。「彼個人の生」と「歴史」の間には、なにか深い断絶のようなものが存在します。

この感覚は、視聴者である私たちにも納得がいくものだと思います。遠い「未来」に何かが変わるであろうことは理解できる。しかし「今ここ」にある自分の「生」が「歴史」と交わるということが想像できない。

この「シュタインズ・ゲート」という作品からは、秋葉原に対する愛情よりも、「疎外感」の方を強く感じます。いまさら説明する必要もないのですが、もともと秋葉原というのは、ラジオや無線機の部品を扱う店が集まった街でした。そこからいわゆる「家電街」へと成長し、Windows95登場以後、急速に「パソコン街」と移り変わります。その後は「第三次アニメブーム」「ギャルゲーブーム」の影響で「萌えの街」に変貌します。さらに「シュタインズ・ゲート」の舞台となるゼロ年代においては、「電車男」や「涼宮ハルヒの憂鬱」がヒット。秋葉原の「観光地化」が始まります。 しかし、前述のように岡部は、基本的に萌えに興味がなく、裏通りの、レトロ家電に囲まれたラボの中で、「”失われた未来”ガジェット」を開発し続けているのです。 繰り返しになりますが、ここから感じられるのは、移ろいゆく秋葉原への愛ではなく、むしろ「疎外」ではないでしょうか。

 

このように「現在進行形の秋葉原」に背を向けている岡部には、何が残されているのか?おそらくはこれが、この作品後半のテーマなのでしょう。 

「椎名まゆり」の死を回避すべく、岡部は「歴史改変」をキャンセルしようとします。そしてその繰り返される歴史の中で、岡部は「ラボメン」との人間関係を、ひとつひとつ確認してゆきます。漆原るか、秋葉留未穂、阿万音鈴羽、椎名まゆり、そして牧瀬紅莉栖。こうしては岡部は自らの「アイデンティティ」を「歴史」との接続ではなく、ローカルな「人間関係」の中で築き上げていきます。

その後、未来から(改めて)やってきた「阿万音鈴羽」に、「牧瀬紅莉栖こそが、未来の世界大戦を回避する鍵だ」と告げられた岡部は、次は彼女を助けるために奔走することになります。ここで岡部は、初めて「未来」に手を伸ばした、と言えるでしょう。そもそも彼にとって「牧瀬紅莉栖」は「新しい人間関係」でした。その彼女を救うことは、彼にとって「未来」に関わること、なのでしょう。

 

シュタインズ・ゲート」がどのような作品であったか、まとめたいと思います。それは、「ゼロ年代秋葉原」に「疎外」された主人公が、自らの「アイデンティティ」を、「ローカルな人間関係」の中で再獲得し、そして改めて「未来」に向かう物語です。そして、それはそのままゼロ年代を生きた、いや、上手く生きることができなかった私達たちへのエールなのではないでしょうか。

 

しかし、それ以上に、2017年の今、この作品を観て思うのは、やはり、「私たちは『牧瀬紅莉栖』を選んだ」のではないか、ということです。「シュタインズ・ゲート」の舞台となったゼロ年代が終わるころ、2009年に「リーマン・ショック」が、そして、2011年には「東日本大震災」が日本を襲います。戦後最悪とも言われる景気の落ち込みは、爆風のように私達を吹き飛ばしました。

そのショックからかろうじて立ち直った後、周りを見渡すと、世界は様変わりしていました。「ガラケー」は絶滅し「スマホ」が台頭。それにともないインターネットといえば、良くも悪くも「2ちゃんねる」という時代は終わりました。代わって普及したのは「SNS」。そこに「2ちゃんねる」的な、「陰性のアングラ感」や「サブカル感」はありません。そして「スマホ」にしろ「SNS」にしろ、それらは「アメリカ」からやってきたのでした。まるで「牧瀬紅莉栖」のように。

ゆえにこの作品は、今観る人に二重の喪失感を感じさせるかもしれません。最初に失うのは「電気街 秋葉原」。次に失うのは舞台となってた「萌えの街 秋葉原」と「アングラなインターネット」です。

現在の私達は、「ある種のアメリカ(牧瀬紅莉栖)」と共に、明るく、観光地化した秋葉原の中を生きています。しかし、それでも時々は、まだ少しだけ薄暗かった、ゼロ年代秋葉原が懐かしくなるのです。