Vガンダム 51話「天使たちの昇天」

カテジナは不甲斐ない男に苛立ってきたし、母性を持った女を憎んできた。強かったはずの男の弱体化と、それを許す女の甘さが、ルース家の家庭崩壊を招き、ひいては宇宙戦国時代という社会の混乱を呼び込んだと信じたのだ。

大人は少年を戦場に送り込み、その少年は男たちを次々と倒し、敗北した男たちは母性の中で幼児退行し、孤独な女は「母になろう」と狂ったように男を取り込んでゆく。秩序も何もあったものじゃない。「おかしいですよ!」と叫びたいのはウッソではなく、むしろカテジナの方だったのではないだろうか。

もしかすると、このVガンダムの世界の中で、唯一正気を保っていたのは彼女だったのかもしれない。だが、正気が成立しない世の中で、正気を貫き通そうとした彼女はいつの間にか狂気の側に居た。強い父権を取り戻そうとした、生真面目な少女は「壊れた世界」に飲み込まれてしまったのだ。

「成長して変革を志せ」というカテジナ。「故郷に場所に帰ろう」というシャクティ。「幼児退行して引きこもりたい」というカガチ。劇中では、この三人の思想がせめぎ合っているのだが、今振り返えると、いわゆる90年代的な思想が、ほぼ全て出尽くしているように思える。

その結末だが、カテジナは辿りつく場所すら見い出せないまま道に迷い、カガチは世界の全てを拒否して自滅し、シャクティはウッソと共に「父権不在の擬似家族的共同体」を作り上げ、そこで生きることを選択する。「何がなんでもウッソには生き延びてもらう」と語った富野が、子供達に何を伝えたかったのか、なんとなく分かる結末だ。

Vガンダム「クロノクル・アシャー」

クロノクルは素直で真面目、その上に努力家だ。持ち前の優等生的器用さで、何でもそつなくこなしてしまう。だが社会が混乱すると、その煽りを真っ先に受けるのが、こういった優等生タイプではないだろうか。バラバラの指示が飛んできたり、対立する複数の価値観を目にすると、彼は混乱し、引き裂かれてしまう。

ザンスカールには、この優等生を上手く導ける大人がいなかった。最初の上司だったファラ・グリフォンは、その強引さで部下の反発を買っていた上、逆にクロノクルに助けられてしまうような人間だ。だが、クロノクルとファラの間に信頼関係が生まれた、と思った瞬間、彼女は更迭されてしまう。二人目の上司であるタシロもクロノクルの信頼を勝ち得ず、やはり、ファラと同じようにカガチによって粛清される。最後に師事したピピニーデンだが、彼は全く話にならない卑劣な男だった。とどめは「地球クリーン作戦」の中止だろう。「いったい全体、本国の連中は何を考えているんだ?!」。自分が全力を注いだ作戦が、何の前触れもなく無意味な行為と化してしまった、その屈辱と無力感。

それでもクロノクルはその場その場で自分に与えられた役割を果たしてゆく。生真面目な彼はそうすることしか知らなかったのだ。

その結果、彼はザンスカールの軍人、女王の弟、優しいお兄さん、ウッソのライバル、シャクティの叔父、そしてカテジナの男といった、多くの、しかも互いに矛盾する複数の立場に立たされてしまう。シャアのように自分勝手な男であればよかったのかもしれない。しかし、生真面目な彼は、どの役割も等しく引き受けてしまった。いや、指示(支配)されることに慣れ切った人間にはありがちだが、やりたいことなんて特に無い男だったからこうなったのかもしれない。

結局、彼はカテジナに煽られた後に「とってつけたような野望」を抱き、その結果ウッソに、いや、世の中というものに敗れてゆく。「貴様に何が分かる!女王マリアの弟にされ、カガチなどとも戦わなければならなくなった、この私の苦しみが!」

 

Vガンダム 50話「憎しみが呼ぶ対決」

「クロノクルは私に優しかったんだ!」

家庭、故郷、リガ・ミリティア。何処にも居場所のないカテジナにとって、ザンスカールとクロノクルだけが「巣」であり、それさえ手に入れられれば彼女は何処にいたってよかったのだ。しかし、その場所すらシャクティという「お姫様」に蹂躙されしまった。そう、いつも大切にされるのはシャクティ(とウッソ)なのだ。

カテジナには「人生に意味や目的が欲しい。価値あることがしたい」という想いがあった。だから、彼女は「革命」や「(王子様との)恋愛」に走ったのだ。それは同時に「特別でありたい、人とは違った存在でありたい」という欲求に簡単に結びつく。「その他大勢」としての人生には意味がないからだ。

彼女がウッソやシャクティを嫌っていたのも納得だろう。何故なら、ウッソたちこそ、才能がありながらも「その他大勢の人生」を生きて行ける「スペシャル」な存在だからだ。歴史の中に埋もれてゆくことを平然と受け入れられるウッソやシャクティが、彼女は憎かったのだ。しかも皮肉なことに、そんなウッソやシャクティこそが「ヒーロー」と「お姫様」で、いっぽうの彼女は、何処まで行っても、ただの「お嬢さん」止まりなのだ。