Vガンダム 40話「超高空攻撃の下」

アムロカミーユならホワイトベースアーガマの空気にどっぷり漬かり切っているところだ。だが、ウッソはリーンホースの仲間からいったん距離をとり、故郷のカサレリアに帰る。過去の主人公たちが故郷を飛び出してそれっきりだったのとは随分違う。彼は自分のアクセスしている社会(リガ・ミリティア)が妥当なのか、本当にそこで成長すべきなのか迷っているのだろう。だから「ザンスカールを倒すため、再合流しろ」という、リーンホースからの命令に反発する。僕は「そんなもの(社会正義)のために戦っているわけではありません」と。ウッソはこの戦争における自分の立ち居地やゴールをきちんと認識しているのだ。結果的に軍人として死んだアムロや、「役割に目覚め」て闘争の末に発狂したカミーユのことを考えると、この彼の態度は妥当だと思う。

逆に漠然とした社会正義達成のためのゴールなき戦争に参加し、ザンスカールの空気に馴染んでいる(ように振舞っている)のはカテジナの方だ。しかし故郷や家庭を憎んできた彼女にとっての「社会」とは一体何なのだろうか?ミクロな社会を蔑んできたカテジナが、マクロな社会に奉仕するための戦いに参加してしまうのだ。どう考えても何かおかしい。しかし、このような人、ミクロな社会を軽蔑しつつもマクロな話題に首を突っ込みたがる人というのは意外と多いのではないだろうか。家庭や学校、職場という政治の最小単位で上手く立ち振る舞えない人に、この広い社会の変革なんて出来るのだろうか?

マチス・ワーカーの妻、レーナ・ワーカーは気丈で強い母親として描写されている。ウッソに何も伝えられないまま無駄死にした夫と違って、彼女はウッソの背中を押す。強い父性が存在しない、まとも機能しない世の中で、富野が期待しているのはこの「子供を叱れる厳しさを持った強い母親」なのかもしれない。それはターンAガンダムにおけるキエルなどにも表れていると思う。