Vガンダム 38話「北海を炎にそめて」

マルチナとデートするために、オデロは彼女を戦場に連れ出してしまう。彼の行動は軽率で危なっかしい。戦闘においても彼は勇み足気味で、イク少佐とレンダの命を無駄に奪ってしまう。オデロを駆り立てているのは「男らしさ」へのこだわりだ。確かにこれは男の子の成長を促す大切な要素で、ファーストガンダムにおけるアムロはこのこだわりによってこそ成長していった。しかしその一方、そのこだわりはオデロが見せたように、簡単に暴発してしまうという危なっかしい一面を持っている。

富野は男の子の成長物語を描いていく中で、この「男らしさ」の落とし所にずっと悩んできた節がある。これをあっさり否定してしまうと男は成長できないし、安易に肯定すれば暴発してしまうからだ。いや、現代では、「男らしさ」とされるものが前時代的とみなされ肯定されないからこそ、そのフラストレーションが暴発してしまうのかもしれない。中性的なルックスと名前を持ちながらも、男らしさへの屈折した憧れを爆発させてジェリドに殴りかかったカミーユ・ビダンはその典型例だろう。

オデロの弟分であるウォレンはMSパイロットを諦めている。優しすぎる彼は戦争に向いていなかったのだろう。エリシャにも、男としては相手にされていないが、それでもオデロからは離れて一人立ちしつつあるようだ。もちろんこの戦争を生き延びるのはオデロではなく、この臆病だが誰よりも優しいウォレン・トレイスである。

子供たちの恋愛と対比される形で、イク少佐とレンダの恋愛も描かれるのだが、それにしてもこの二人、あまりにも初々し過ぎないだろうか。イク少佐なんて30歳は越えているだろうが、やってることがオデロと変わらない。幼少時代のロマンを手放さないピュアさを持つ分だけ、単純で幼いのだろう。彼は大人になり損ねた男なのかもしれない。

Vガンダム 37話「逆襲ツインラッド」

鯨の屍骸に怯えるマルチナとエリシャに対してシャクティがその電波な身体論を炸裂させる。これはVガンダムのテーマの一つを簡潔に説明するものだと思う。彼女は「人間は美しく生きることが出来ない」と語っているのだ。これはマルチナやエリシャに向けて、と言うよりも、カテジナをはじめとする「ピュア」に生きたくて仕方のないマリア主義者たちに対して投げかけられた台詞である。

ドゥカー・イクは相変わらず「地上をバイク乗りの楽園にしたい」という「訳の分からない」理由でリガ・ミリティアに戦いを挑んでくるのだが、この「噛み合わなさ」はVガンのドラマ性を下げていると思う。「話しても無駄だよ!」というオデロの台詞に集約されるように、イクにしろ、クロノクルにしろ誠実なのは分かるのだが、マリア主義者の多くはどうみても何かが根本的にズレていて、会話が成り立ちそうな相手じゃない。

だが、この「ドラマ性の無い戦争」はある意味でリアルなのかもしれない。90年代以降、幾つかのカルト教団や、所謂「おかしな人たち」が様々な事件を引き起こしてきたが、多くの場合において彼らの主張は意味不明であり、人々を脱力させると同時に不気味がらせてきた。このような「理解出来ない隣人たちの暴発」に対する不安感と、Vガンダムにおける「理解できない他者との戦争」はよく似ているように思う。

Vガンダム 36話「母よ大地に帰れ」

ミューラ・ミゲルはウッソを手放す覚悟を決めたらしいが、ウッソの方はまだ母親に拘っている。そんなウッソを無理矢理母親から引き離すべく、富野はこの36話でとうとうミューラ・ミゲルを殺害してしまう。「キエル嬢のスカートの中に頭を突っ込みたい(母性の中に包まれたい)」と発言してしまう現在の富野の姿からは想像しにくいが、このVガンダムという物語の基底にあるのは、この富野の母親に対するアンビバレンツな感情だろう。

個人的に面白いのは、クロノクルとカテジナの反応だ。「地球クリーン作戦」によって多くの人々を殺戮してきたにも関わらず、クロノクルの表情は実に晴れ晴れとしていた。だが、この人質作戦の結末については、クロノクルもカテジナも激しく動揺してしまう。何万人も殺してきた彼らが、たった一人の死に耐えられないのだ。何故か。

彼らは地球クリーン作戦という「正当な手続き」によって人が死ぬ分には一向に構わないのだ。もちろん、ここでの正しさはマリア主義が保障してくれるため、何千人、何万人死んだとしても、それはクロノクルたちの責任ではないのである。しかし、この人質作戦は彼らの信じるマリア主義の教義に照らし合わせてみても明らかに間違った作戦だったらしい。クロノクルとカテジナの動揺は「自分の手を汚してしまった」という後ろめたさからきているのだ。

ここにあるのは「正しく行動すれば、その結果に責任は持たなくてよい」という発想だろう。彼/彼女は、自分の純粋さが担保されていればよいのだ。それを押し通した結果としてなんらかの悲劇が起こったとしても、それは社会の側が引き受けるべき責任なのである。