かがみの孤城(母と子の孤独)

先日「かがみの弧城(原作:辻村深月、監督:原恵一)」というアニメ映画を観てきた。

ああ、中学校ってこんな感じだったな。
今でもこうなんだろうな。
そういえば、私は「保健委員」だった。
保健室に行くと、いつも生徒が何人かいたな。
あれも保健室登校みたいなものだったのだろう。
親や教師は、子供たちに何かを期待する存在だけど、保健の先生はそうじゃないからね。

不思議なものだ。
ついこの間まで、私も中学生だった。
しかし今では死の薄暗い影がゆっくりと、しかし着実に背後から近づいてくるのを感じる。
冬の夕暮れのように。
そんな年齢なのだ。

 

そんなことを思いながら観ていた。


しかしこの作品、なぜか狭くて重苦しい。不登校やイジメをモチーフにした作品だから当然なのかもしれないが、それだけではないと思う。

 

私が感じたのは、一言でいえば「父親の不在」である。いや、父親だけではない。祖母や祖父なども含めた、母親「以外」の大人の「存在感の薄さ」である。もちろん原作者が女性である、ということもこれには影響しているだろう。イジメの描写も女子生徒が中心だ。

 

しかし、である。ヒロイン(こころ)の父親の存在感の「なさ」は、あんまりではないだろうか。おそらく劇中で一言も口をきいていないし、誰もその顔を見ていないのではないか。それはサッカー少年(リオン)の家庭も同様だ。息子にああしろ、こうしろと指図するのは母親であって、父親ではない。ウレシノに至っては完全にマザコンである。

 

結果、この作品に登場するのは「母と子」だけである。フリースクールの先生(アキ)もまたかつての子供であり未来の母親である。おそらくこれはあるていど「現実」であるはずだ。切り離された世界の中で、孤立した母と子(あるいは娘)が永遠の回転を続けている。

 

作品における中心的な(意識的に選ばれた)モチーフは「不登校」と「イジメ」なのだが、本当の問題はこのような「母と子の孤独」なのではないだろうか。