Vガンダム 41話「父の作った戦場」

タイトル通り「火消しが火を付けて回っている」エピソード。ウッソの父、「戦争マニア」のハンゲルグ・エヴィンが登場する。のちに分かるがこのハンゲルグ、ザンスカール戦争の勝利を確信した直後に息子を見捨てて戦場から逃走、次なる敵を倒すために木星へ向かってしまう(劇中では描写されない)。立派といえば立派かもしれない。だが、その戦争は本当に彼がやらなくてはいけないのだろうか?息子を見捨てるほど焦らなくても、せめて一度、故郷に帰るくらいのことはしてもよかったのではないだろうか?

おそらくだが、ハンゲルグはカテジナと同じように、正義の戦争という非日常がもたらす高揚感と充実感の虜になっており、カサレリアでのヌルい日常へ帰ることが出来なくなってしまっているのだ。ウッソとマーベットが彼を「戦争マニア」だと評したのはかなり的確だと思う。

ザンスカール帝国のカガチも同じだ。彼もザンスカール国内だけ治めていればよかったのに、よその国にまでマリア主義を広めようとし、その結果戦争を起こしている。マリア主義をハンゲルグにとっての正義と読み替えても、意味は全く同じではないのか。

ハンゲルグがザンスカールではなく、リガ・ミリティアとして戦っているのは「偶然」の結果に過ぎないようにも思える。

Vガンダム 40話「超高空攻撃の下」

アムロカミーユならホワイトベースアーガマの空気にどっぷり漬かり切っているところだ。だが、ウッソはリーンホースの仲間からいったん距離をとり、故郷のカサレリアに帰る。過去の主人公たちが故郷を飛び出してそれっきりだったのとは随分違う。彼は自分のアクセスしている社会(リガ・ミリティア)が妥当なのか、本当にそこで成長すべきなのか迷っているのだろう。だから「ザンスカールを倒すため、再合流しろ」という、リーンホースからの命令に反発する。僕は「そんなもの(社会正義)のために戦っているわけではありません」と。ウッソはこの戦争における自分の立ち居地やゴールをきちんと認識しているのだ。結果的に軍人として死んだアムロや、「役割に目覚め」て闘争の末に発狂したカミーユのことを考えると、この彼の態度は妥当だと思う。

逆に漠然とした社会正義達成のためのゴールなき戦争に参加し、ザンスカールの空気に馴染んでいる(ように振舞っている)のはカテジナの方だ。しかし故郷や家庭を憎んできた彼女にとっての「社会」とは一体何なのだろうか?ミクロな社会を蔑んできたカテジナが、マクロな社会に奉仕するための戦いに参加してしまうのだ。どう考えても何かおかしい。しかし、このような人、ミクロな社会を軽蔑しつつもマクロな話題に首を突っ込みたがる人というのは意外と多いのではないだろうか。家庭や学校、職場という政治の最小単位で上手く立ち振る舞えない人に、この広い社会の変革なんて出来るのだろうか?

マチス・ワーカーの妻、レーナ・ワーカーは気丈で強い母親として描写されている。ウッソに何も伝えられないまま無駄死にした夫と違って、彼女はウッソの背中を押す。強い父性が存在しない、まとも機能しない世の中で、富野が期待しているのはこの「子供を叱れる厳しさを持った強い母親」なのかもしれない。それはターンAガンダムにおけるキエルなどにも表れていると思う。

Vガンダム 39話「光の翼の歌」

ウッソたちの前に「立派な大人の男」(?)が立ちはだかる三十九話。敵を撃墜することをためらうウッソと、全く躊躇しようとしないマチス大尉のコントラストが印象的だ。迷いを見せている間のウッソは弱く、迷わないマチスは強さを見せるのだが…。

何もかも理解し納得済みで死んでいったランバ・ラルと違い、このマチス・ワーカー大尉は「家族を守る」という男らしい信念を貫こうとした結果、「勘違い」で死んでしまう。このシーンが悲しいのは彼が死んだからではなく、彼がひたすら「空回りしている」からである。別にマチス大尉がラルより劣っていた、という訳ではないだろう。おそらく彼の生きた時代が、連邦とジオンの二項対立で理解できる程度に単純だった宇宙世紀0079年と違って、ずっと複雑で理解しにくい時代だったのだ。ラルのような強い男が存在しない、というよりも、存在することが許されないのが、この宇宙世紀0153年なのかもしれない。