Vガンダム 46話「タシロ反乱」

シャクティは、男たちを叱責し、また、銃を撃つことまでするのだが、これと同じ光景をガンダムファンは数年後にも見ることになる。そう、∀ガンダムに登場するキエルもまた、ディアナに代わってムーンレィスの男達を叱責し、ギンガナムの刀を奪って彼に切りかかろうとしていた。シャクティが、女王マリアに代わってキールームに入ることからも分かるように、この親子の関係は、∀ガンダムにおけるディアナとキエルの関係と全く同じであり、Vガン世界における「グレートマザー」の交代劇なのだ。

「とうの昔に狂っている!」タシロやファラに比べて、カテジナは自らの狂気を自覚している。彼女に言わせれば、それはウッソとシャクティのせいなのだが、個人的には社会に対する彼女のスタンスのせいだと思う。戦場の狂気に染まってでも、社会変革を志すカテジナと、エゴイストと呼ばれよる可能性を引き受けつつも、そんな戦場からは距離を置き続けるウッソ。宇宙世紀0153年において、どちらが正しかったかは言うまでもない。「生きのびる」ために自ら戦場に飛び込んだアムロ的な生き方は、Vガン世界では通用しないのだ。

Vガンダム 45話「幻覚に踊るウッソ」

ジャミトフ・ハイマンは連邦制度の引き締めとジオンの残党狩りを目的にティターンズを設立。右傾化する社会を憂いたブレックスは左翼過激派、エゥーゴを結成。エゥーゴの台頭を恐れたバスクティターンズを極右武闘派組織へと作り変えていった。こうして彼らは互いに暴走、グリプス戦役へと突入してゆく…。特に彼らが悪党だった、という訳ではないと思う。むしろその逆ではないだろうか。悪人だから右になる訳じゃないし、左になる訳でもない。立場はどうあれ、彼らは「よりよい社会を創り上げなくては」と考え、焦っていたのだ。

Vガンダムにおいては、成長や社会参加への意欲あふれるカテジナ&クロノクルのコンビより、消極的でいまいちヤル気のないウッソの方が肯定的に描かれている。この45話における女王マリアの祈りも「社会変革など夢見るな」「日常へ帰れ」というメッセージに他ならない。だが、これは一歩間違えば単なる現状肯定にしかならない。しかもマリアの祈り(母性)に闘争本能(向上心)を封じられたウッソは、現実を生きるどころか、幻覚の中で危うく死にかけてしまう。その時ウッソを救ったのは、闘争本能溢れるオデロが広げた光の翼と、シャクティが歌う「ひなげしの歌」だ。「…若者たちは 夢の翼を広げて ひなげしの花を 散らしながら 旅立っていく…」。

逆シャアからVガン時代の富野は現状肯定と社会変革願望の間で激しく揺れていたのだろう。この少年に、いや人類に「夢の翼」で旅立つことは必要なのか?と。

Vガンダム 44話「愛は光の果てに」

個人的な話だが、小学生の頃に「風の谷のナウシカ」を観て非常に感動したことがある。「ナウシカは心のキレイないい子だなぁ」なんて思ったものだ。ところが最近この作品を見直したところ「オウムより、ナウシカの方が暴走しているのでは」「こんな学級委員長タイプの女の子、鬱陶しくて嫌だな」なんて思ってしまった。どうやら大人になると素直な心を無くしてしまうものらしい。映画を観たり音楽を聴いてもなかなか感動しなくなるし、物事を素直に受け取らずに、つい斜めから穿った見方をしてしまう。そしてこんな自分に疲れてしまったとき、人は子供の頃の無垢さを取り戻したいと願うのだろう。たとえば本屋に行ってみて欲しい。そこには大人が涙するためのチープな童話集や「素直になれば全てうまくいく」なんていう怪しげな自己啓発本が平積みになっているはずだ。

さて、この44話に(突然登場する)キスハールとカリンガーも、そんな「子供のイノセンス」を求める大人たちだ。「子供が大人のように汚れるなど!」というカリンガーの台詞からも、この二人が大人である自分たちを「汚れた存在」だと感じているのがよく分かる。彼らは「子供のイノセンス」を取り戻したかったのだろし、実際、取り戻したのだろう。瞳が異様に澄んでいて、アブナイ光を湛えている。そしてだからこそ、この2人はカルトな宗教にのめり込み、ウッソとマーベットの三文芝居に騙され、シャクティの願いを真に受け、ファラの煽りに乗った挙句、お互いに殺しあい「こんな嘘だらけの世界の中でも、僕たちの愛は本物だよ」みたいなノリで死んでしまう。