Vガンダム 48話「消える命 咲く命」

「いつの間にか戦争に染まりきっているよな」「僕は嫌なんです。人殺しをしているところで大人になるなんて」

劇中のこうした台詞は、過去のガンダム・シリーズ、特にファーストガンダムの否定に近い。戦場という「非日常」で大人になってしまったアムロが、Zガンダムにおいては、豊かで平和な「日常」に適応できないダメ人間になっていたのを思い出して欲しい。ウォン・リーの娘、ステファニーにも突っ込まれていたが、アムロが元気になるのは戦場だけなのだ。クワトロ(シャア)の「これ(戦争)以外に食う方法を知らないからさ」も、茶化してはいるが半分は本音だろう。

Vガンダムと続く∀ガンダムにおいて、富野は戦争という「非日常」よりは、むしろ「日常」における成長物語を描くことに腐心している。このエピソードにおいても、ウッソをはじめとするホワイトアークの面々は、「日常」を取り戻すために、戦場の真っ只中で遊んでいる。そう、当たり前かもしれないが、この「日常」こそ、必死になって創り上げるものなのだ。

しかし、ウッソの父ハンゲルグは、息子の運んでくる、この「日常」の匂いが鬱陶しいらしい。息子に対してそっけない態度をとり続けている。彼が戦争を始めた理由は、そもそも「日常」を取り戻すため、だったはずなのだが、いつのまにか「日常」に帰ってこれない本物の「戦争マニア」になってしまったようだ。

カテジナもまた、このハンゲルグと同じように「日常」に対する不全感と苛立ちを、戦争という「非日常」にぶつけているのだろう。

Vガンダム 47話「女たちの戦場」

ギロチンを押し付けられたファラにしろ、ルペ・シノにしろ、彼女たちは愛した男を殺すことしか知らない。そんな「女」たちを、ここで「母」になりつつあるマーベットが撃退する。マーベットがファラを打ち破ったのは、子供を手に入れたマーベットの方が、男に飢え続けているファラよりもずっと精神的に安定してるからだろう。だがしかし、この「母」もまた子供に対する「執着心」と、その際限のない「甘さ」から、子供の成長を妨げてしまうことがある。

その筆頭が女王マリアだ。彼女の底なしの「母性」は、この後、ザンスカールの男たちと、地球の生物を無限に幼児退行させていくことになる。

Vガンダム 46話「タシロ反乱」

シャクティは、男たちを叱責し、また、銃を撃つことまでするのだが、これと同じ光景をガンダムファンは数年後にも見ることになる。そう、∀ガンダムに登場するキエルもまた、ディアナに代わってムーンレィスの男達を叱責し、ギンガナムの刀を奪って彼に切りかかろうとしていた。シャクティが、女王マリアに代わってキールームに入ることからも分かるように、この親子の関係は、∀ガンダムにおけるディアナとキエルの関係と全く同じであり、Vガン世界における「グレートマザー」の交代劇なのだ。

「とうの昔に狂っている!」タシロやファラに比べて、カテジナは自らの狂気を自覚している。彼女に言わせれば、それはウッソとシャクティのせいなのだが、個人的には社会に対する彼女のスタンスのせいだと思う。戦場の狂気に染まってでも、社会変革を志すカテジナと、エゴイストと呼ばれよる可能性を引き受けつつも、そんな戦場からは距離を置き続けるウッソ。宇宙世紀0153年において、どちらが正しかったかは言うまでもない。「生きのびる」ために自ら戦場に飛び込んだアムロ的な生き方は、Vガン世界では通用しないのだ。